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浦和レッズが好きなすべての人々へ捧ぐ…
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あと1勝すれば優勝という試合は近年幾度となく経験したが、レッズとレッズサポーターがそれを初めて体験した試合が2002年ナビスコ杯決勝だった訳だ。
結果から言えばこの試合は、鹿島に0-1で破れて、レッズは悲願の初タイトル獲得をあと一歩で逃す形になったのだが、この敗戦こそがその後のレッズ黄金期のスタートでもあったように思える。
雪辱に燃えるレッズは翌年、同じナビスコ杯で再び決勝まで勝ち進み、昨年と同じ対戦相手である鹿島相手に勝利し、見事初タイトルを獲得するのだから。

さて初タイトル獲得の話はまた別の機会に書くとして、今回はレッズが初めてファイナリストとなった2002年ナビスコ杯決勝について。

初めてのファイナリスト

10月2日、アウェー万博でガンバを3-2という接戦で破り、初の決勝進出を決めた時は、全国のレッズサポーターは狂喜乱舞したことだろう。平日アウェーだったから自分は自宅ラジオでこれを聴いていたが、決まった瞬間、時間も考えずに仲間に電話をかけまくってしまった。しかも決勝の相手は鹿島。これまで何度も苦汁を飲まされて来た宿敵を、いよいよタイトルのかかった試合で叩くチャンスを得たのであるから、これはもうモチベーションが何重にも上がる。

10月5日、駒場での神戸戦当日が決勝チケット発売日という慌ただしさ。何故プラチナ化確実なチケットを試合日に発売するのか?とチケット発売方法に疑問を持ったものだったが、とにかくこれを手に入れなければ始まらない。仲間と手分けして、仲間の一人は駒場で列を確保しながら携帯で、自分ともう一人はOCMプラザ某店(ここ、けっこうな穴場だったのだが、数年前に無くなってしまった(泣))に並んで、無事にチケットを確保したのだった。

f3f6bd1f.gif試合日まで、新聞やサッカー誌はレッズ決勝進出に関する記事が賑わし、レッズにとっての初タイトルはもちろん、三菱時代からクラブを一筋に支えて来た福田にもいよいよ初タイトルを、との声も日増しに高まっていた。

当時のレッズはオフト就任1年目。前線にはトゥット、エメルソンという強力外国人を擁し、更に永井、田中達也も控えていた。
FWが過密になる中、オフトは福田にバランサーとしての役割を与え、2列目、3列目のポジションでレギュラーに復帰させ、福田もそれを忠実にこなしてチームに活力を与えて居た。

試合前夜、与野本町の仲間の家に集合して一杯やって一眠りしてから、仲間の車で深夜の首都高をすっ飛ばしていざ国立へ。
国立に着くと、既に長蛇の列!当時のナビスコ決勝では抽選なんて存在していなかったから、みんな徹夜体制で並んでいたのだ。
まあ、それは想定内だったから良いのだが、それ以上に、とにかく寒い!!11月初めにしては、やたらこの日は寒かったのだ!ジャンパーの厚着も、ホープ軒のラーメン喰っても、とにかく寒いものは寒い。一眠りしようとしても寒くて寝られない。極寒の夜に「寒い~!死ぬ~!」「ファイナリストって大変だなぁ!」と訳の分からない言葉を朝まで連発し、寒さ凌ぎに彼方此方徘徊しながら耐える。そしてようやく列が動き出したのは10時過ぎだったか・・・
国立に入場してもゴール裏は大混雑で前に後ろに進めず、「こりゃあ通路だな」なんて覚悟していた矢先に携帯が鳴る。「おーい、席確保したってよ」・・・別働隊が最前列に近い陣地を確保してくれたとの報。
陣地に着いて一呼吸してピッチを見渡せば、「これは・・・」それ以上の言葉が続かなかった。一瞬時が止まったかのように、その風景を見渡してしまっていた。スタンドの壁には一円花輪が飾られていて、普段見馴れない超豪華な風景に、ハッと我に返った時には「これが決勝かぁ、すげぇなぁ!!」と興奮を覚えたものである。
こんな素晴らしい舞台で戦える感動。
「あと1つ、あと1つ勝てばタイトルを手に入れられる・・・!!」

2002年11月4日、快晴。やや冷たい風と昼下がりの強い陽射しの中・・・いよいよ運命のキックオフ!!

と、実はこの試合、俺は断片的にしか覚えていない。
応援に熱が入っていた、と言えば聞こえは良いが、正直決勝という緊張感もあってか、普段以上に我を忘れて、試合に入り込んでしまっていたのだろう。
小笠原のシュートが井原の身体に当たってコースが変わり、不運な失点を期した場面。
突破されようかという時に、福田が必死に相手に食らい付いてなぎ倒して、ファールしてしまった場面。
鹿島の組織的守備に動きが封じられて苦悩するエメルソン。
そして、ついにトゥットが抜け出してキーパーと一対一となった場面。「!!」・・・しかしこれを防がれて、自分も頭を抱えた。もしあの時、これを決めていたら・・・
気付けばロスタイムで、レッズの攻めが切られて、主審が笛を・・・その瞬間俺は叫んでしまった。「ああ~!待って審判!まだ笛を吹かないでくれ~~!!」・・・それ虚しく国立に響く試合終了の笛の音・・・終わってしまった・・・
あっという間の90分は、0-1という結果で、レッズはあと1歩の所で初タイトルを逃してしまったのだった。レッズサポも、そして福田も・・・。

対峙する鹿島ゴール裏から「浦和レッズ」コールが聞こえてきたが・・・。

何だか妙に疲れてしまって、「飲まないの?」との問いかけに「疲れた。今日は帰るわ」と、居酒屋に寄らずに陽がある内に帰宅してしまった。
自分の部屋に入ると記念品とナビスコのお菓子を放っぽり投げてバタンキュー。「ああ、くっそぅ~、せっかく決勝まで行ったのに~~~!!!」頭の中で悔しさが渦巻いていた。この時は、来年雪辱を果たしてやろうなんて事にまで頭は切り換えられておらず、ただただ後悔(何の後悔かよくわからんが)と悔しさで一杯だった。

そしてこの月の末、福田に戦力外通告が下されることになる。

**********
2002年11月4日/国立競技場
ヤマザキナビスコカップ決勝 鹿島1-0浦和
得点/59分・小笠原(鹿)
観衆:56,054人

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Jリーグに移籍して来た外国人助っ人FWの中で、敵として本気で『怖い』と感じた選手が3人居る。
1人目は第一次柏時代のエジウソン。ピークを過ぎた外国人が大半を占めていた当時のJリーグにおいて、その本物のスピードと個人技は鮮烈だった。
2人目はガンバ時代のエムボマ。アフリカン特有のバネのような身体能力とパワーは、Jリーグの常識を遥かに越えていた。因みにエムボマは顔も怖かった。
そして3人目、この話の主人公・札幌時代のエメルソンである。

若干18歳(後に年齢詐称が発覚)のマルシオ・エメルソン・パッソス=エメルソンがブラジルの名門サンパウロから期限付きで札幌に加入したのは、レッズがJ2を戦うことになった2000年シーズン。
当時J2は、今と比べれば雲泥の差でテレビ放映が少なかった時代に、このエメルソンという若い選手が次々得点を量産している現状を、その大半は新聞や雑誌での報道記事からしか伺い見ることが出来なかった。故にエメルソンの全体像がわからなかった中で、とんでもないFW選手が昇格のライバルのひとつである札幌に在籍していることに、それこそ不気味な不安を抱かされていた。

74ad61f6.jpgレッズが札幌とJ2同士として初対戦することになったのは6月4日、駒場での第17節(本来は室蘭での第6節であったが、有珠山噴火の影響で延期された)。
ここまでエメルソンの得点数は、なんと「16」。・・・いくら2部リーグとはいえ、この試合数でこの得点数は、ハッキリ言って洒落になっていない恐るべき数字だった。
試合前から話題はエメルソン一色。「やばい」「そんなに凄い選手なのか」「どうやってうちの守備陣が止めるのか」・・・明らかに不安先行だった。しかし、不安がってはいられなかった。ましてや札幌とはこの時点で首位を争う同士。レッズは首位を守るためにも絶対に負けられない、勝たなくてはいけない状況だったのだ。そこに立ちはだかった唯一であり最大の懸念が、そのエメルソンだったのだ。

試合開始とともに、最大の武器である弾丸ドリブルを駆使して突進を試みるエメルソン。ここでレッズサポも恐怖先行のサポートが始まる。エメルソンのドリブルが開始される度に「ギャー!!来た来た!」「速ぇぇぇ!!」「やばいって!潰せ潰せ!!」。挙げ句は自分自身もエメルソンに対して思いつく限りの雑言暴言連発!「レッズをなめんなよゴルァ!!お前なんて仝◯☆〆Φで△◎〒▼♂@でΨ♯〆§●〆Ωだろボゲェ!!!!」・・・今から思うと、とんでもない言葉を吐き散らしていたと思う。でもそうでも言わなければ、簡単には恐怖心は取り除けなかった。それほど恐怖対象だったのだ。
レッズは、縦に速いエメルソンをサイドに追い詰めてはその進撃を制限するような守備体系を敷いていたように記憶している。これが功を奏したのか、エメルソンには評判通りの働きをさせなかった。レッズだって去年までトップリーグで戦っていたプライドがあるし、恐らくエメルソン自身も、これまで日本で対戦して来たチームとは一味違うと感じたと思う。そんな雰囲気がぶつかり合い、そして思うような動きが出来ないエメルソンは、イライラからなのかラフプレーを連発し、75分には2度目の警告を受けて退場してしまった。
あっけないエメルソンとの初顔合わせだった。・・・試合はその前にビジュに先制点をぶち込まれて、結局0-1で負けてしまったのだが・・・。

f45aad63.jpgそんな、レッズがJ2で苦戦した原因の一端を担った憎き恐怖のエメルソンが、よもや翌年レッズに加入することになろうとは、その時は露ほどにも思っていなかった。
昨日の敵は今日の友。加入当初、果たしてJ1で通用するのかが疑問視されていたエメルソンも、J1デビューとなった駒場での広島戦では、途中出場ながら得意の突破を何度も試みては相手のファールを誘発させる衝撃のデビューを飾ったのだった。
それから数シーズン、当初は問題児視されていたエメルソンも日を追う事にレッズに馴染み、始めはボールを持ったら離さなかった彼の独り善がりのスタイルも徐々に解け、周りを使い使われるようになりながら確実に成長を続けていった。そして2005年途中まで、エメルソンはその進化とともに怪物ぶりをいかんなく発揮しては、相手チームに対して常に恐怖と脅威の対象となり続けた。彼自身も得点王やMVPという華々しい成績を残し、レッズに多くの勝利と、そしてついには初タイトルをもたらしてくれた。まさにレッズ躍進の歴史に欠かすことが出来ない選手となった。
残念だったのは、シーズン途中で不可解な形から「別れも告げずに」突然カタールリーグのアル・サドに移籍してしまったことだ。あの時は「オイルマネーに目が眩んだ」「代理人に騙された」「業を煮やしたレッズの方から放出した」などの様々な説が流れたが、今となっては真相は闇の中だ。

ただ、移籍したカタールでは年齢詐称が発覚して逮捕される騒動や、カタール国籍を取得するもユース時代のブラジル代表歴から同国代表入りを断念せざるを得ない状況に陥ったり、念願であった欧州移籍を果たすものの、移籍先のレンヌ(フランス)では不振を極めてわずか半年でカタールに戻るなど、日本を出たエメルソンのその後は、決して華々しいものではなかったように思える。

41ed1553.jpgそんなエメルソンが、今年3月から母国で再出発を果たした。
10年振りにブラジルに復帰した彼の移籍先は名門フラメンゴ。ここで彼は同じく母国リーグに復帰した元インテルの”怪物”アドリアーノと2トップを組み、その輝きを取り戻しつつあるという。
最近発行された某雑誌のインタビューに応えるエメの言葉からは、かつて自身が黄金期を築いた”浦和レッズ”への思いと未練が伺えたが、そんな彼を見ると、やはりどことなく懐かしく恋しい思いに駆られる。

彼が今後どういうサッカー人生を歩んで行くかはわからないが、願わくばもう一度浦和で、と思ってしまうのは、過去に『浦和の、いや、埼玉の敷居を二度と跨ぐな』という決別記事を書いてしまった自分も、ようやく彼を許す気になったからなのだろうか。
・・・いや、良き思い出は、夢は夢のママでこそ・・・

大分に負けてちょっとサッカーの神様を罵倒してしまった直後だから間が悪いんだけど、今回はそんな大分とも最後の昇格の椅子をかけて争ったJ2で、いよいよ最終節に待っていた数々のドラマを。

**********

神様がレッズに勝たせたいと思った

時にレッズは「事実は小説より奇なり」的なクラブであると称される。それはこの試合が一番象徴しているのではないかと思う時がある。
非常に強いインパクトとして残った試合は、これからもこの試合を置いて右に出るものは無いかもしれない。それだけ衝撃的であり感動的であり、ドラマチックな内容に終始した展開劇。そして最後の最後に待ち受けていたもの、それは今時どんなドラマの脚本家でも描かないようなラストだった。

当初の大方の予想では、J2におけるレッズはその圧倒的な戦力差を見せ付けて、無敗に近い形でリーグを独走し、最終節を待たずしてとっくにJ1復帰を決めているはずだった。ところが・・・
何故このような事態に陥ってしまったのだろうか。慣れないJ2の長丁場による精神と肉体の疲労。続出する主力の怪我。歯車が狂ったチームは度々内部分裂を起こし、自信を失った斉藤和夫監督は10月にその指揮権を剥奪され、GMであった横山謙三氏が、総監督として6年振りに現場復帰していた。

最終節開始時点のJ2上位3チームの順位
1.札幌 勝点94(昇格決定済み)
2.浦和  勝点80 差+41
3.大分  勝点78 差+41
当時、J2を独走したのはレッズではなく、エメルソンという怪物を擁して圧倒的な得点力を誇った岡田武史監督率いるコンサドーレ札幌だった。この札幌は最終節を待たずして早々にJ1復帰を決めており、残る昇格の椅子は1つに残され、これをレッズと、そして大分トリニータが争っていた。

J2最終節、晴天のホーム駒場にサガン鳥栖を迎えて、レッズのJ2最後の戦いが始まった。

駒場西ゴール裏、そこのまさにゴールポスト真後ろに陣取っていたから、このゴール前で展開された数々のドラマを正面で体感することになった。

前半、「正直楽勝と思っていた」と後から語った横山氏の言葉とは裏腹に、試合は膠着しては攻め込まれピンチを迎えるレッズ。・・・緊張のためか、明らかにレッズ選手陣の動きがぎこちなく、固く、重いのが見て取れた。わかる、サポーターである自分だって緊張しているのだから、実際ピッチに立つ選手が緊張しないわけがなかった。
何とか無失点に抑えた、と表現した方が正しいかもしれない前半だった。
が、この停滞ムードを後半すぐにアジエルの先制点が打ち消した。これで一瞬、目に見えない重圧から解放された気分になり、「さあ後はここからゴールラッシュでJ1へ戻るだけ」と意気巻いてしまった。これがいけなかったのか・・・。

6分後、ゴール前で西野と西部が連携ミスを起こし、鳥栖の外国人選手ルシアノに同点弾を放り込まれる。
さらに64分、ピクンの緩い守備からあっけなく石谷の突破を許したレッズは、ゴール前で西部と1対1となる場面で室井が後ろから懸命のタックル・・・判定は・・・PK、・・・そして室井に提示されたカードは、一発退場を意味する赤・・・
この時ほど神も仏もないのか、とサッカーの神様を呪ったことは無かったが、とにかく現時点で思い付く限りの最悪の事態が、現実として目の前のピッチで実際に展開されている。更にこれに追い打ちを掛けるように、周りからはあと1つ残された昇格の椅子を争うライバルの大分が、大宮相手に先制した報がもたらされる。・・・事態はいよいよ持って深刻な状況に突入して行く。

騒然とした雰囲気。「マジかよ・・・」仲間と顔を見合わせながら、その言葉しか出てこなかった。もしこのPKを決められて試合が終わってしまったら・・・考えてはいけないとわかっていながらも、そう悪い方に考えてしまう自分に頭を抱えた。精神的に追い詰められた状態で、それでもどんな状況でもサポートしなければいけない中で、情けないことだが、この最悪の状況から逃げ出したい、夢であってほしいとさえ思う女々しい自分がそこに居た。
ああ、神様・・・!!無神者の自分が都合の良い時だけ神様を持ち出してしまうのも情けなかったが、ハッキリ言ってそんな体裁に構っていられる状況ではなかった。もうレッズを助けてくれるなら、神様でも仏様でも死んだ爺さんでも誰でも良かった。とにかくそう祈るしかなかった、直後、
ガシャン!!
強烈な衝撃音とともにルシアノの蹴ったボールがポストに跳ね返っていた。「うっ!?」跳ね返ったボールを更に狙うルシアノ!それを、またも、外した!!
「っ、!ほ・・・」何て言って良いかわからないが、変な声を出して、鉄柵にヘタリこんでしまった。
ああ~、神様~!!今度は神様に感謝する自分・・・人間って本当に都合の良い生き物だ。
「まだ行ける、神様はレッズに味方している・・・!!」

しかし、結局レッズとサガンの戦いは90分終えて1-1。延長戦に突入することになった。ライバル大分はすでに90分間を1-0で勝利していた。
延長戦が廃止された今なら考えられないが、今から思えばこの延長戦が存在していた時代だったから良かったのだと、今は本当にそう思える。

延長戦開始前の暫定順位
2.大分  勝点81 差+42
3.浦和  勝点80 差+41

いよいよ追い詰められ後が無くなったレッズは、延長で勝つしか道は残されていなかった。

延長を控えた重苦しい雰囲気の中で・・・岡野がピッチに踊り出て全力でそのピッチを走り出した。
沸き立つスタンド。岡野からすれば、この時こそレッズとレッズサポーターの士気を鼓舞して流れをレッズに引き寄せるための行為だった。しかし、俺はこの時の皆の気持ちとは違っていて、「ここで走り回って体力を使わないでくれ」なんて現実的なことを思っていたのだった。スマン岡野。

その岡野の疾走に引っ張られるように、・・・延長開始から5分後。
阿部のFKが壁に跳ね返される。俺は「まだある!!」そう叫んだのを記憶しているが。そのこぼれたボールを拾った土橋が、ワントラップして、左足を、振り抜いた。
・・・、
ボールの弾道は見えなかった。ハッとするとそのボールがゴールネットを突き刺していた。

!!!!!!

そこから数分間は良く覚えていない。何も見ていない。狂ったような超歓喜の中で号泣してしまっていた。嬉しいからなのか安堵したからなのか重圧から解放されたからなのか、とにかくこの1年の色々なものが、土橋のVゴールによって一気に噴出してしまったのだ。
サッカーを観て涙を流すなんて、それまでは考えられなかった。その考えられない出来事が自分の身に起こってしまった。何かを真剣に応援することって、こういう事なのだろうと、初めて気付いた瞬間だったのかもしれない。

話を試合に戻す。さて、この展開からして最後のVゴールまで。特に土橋の25メートルはあろうかという位置からの緩やかな放物線を描いた鋭く奇麗なシュートは、100本打っても簡単には入らないだろうと思われる高レベルの、超スーパーゴールだった。
功労者である土橋には失礼だけど、あんな凄い弾道によるゴールは、何かが乗り移ってでもいなければ表現出来ないような奇跡的なものだったはず。蹴った本人は後で「チームとサポーターの全員の思いが乗った」と表現したことからもそれがわかる。
そうでなくてもPKが外れたり、1人少ないレッズが勝ったりと、何かと神懸かった試合であったということだけは間違いない。鳥栖の監督であった高祖氏が「神様がレッズに勝たせたいと思った」という名言を残しているけど、まさにそうだったのだろうと、身に染みてそう思うのだ。

最終順位
2.浦和  勝点82 差+42(昇格)
3.大分  勝点81 差+42

J2での重圧から解放されて駒場から浦和までの足取りは軽く、晩秋の夕方の陽射しが温かく眩しかった。これでやっとJ1に戻れるという実感が込み上げては喜びを噛みしめた。
浦和で仲間と美酒に酔った(因みに西口の和民で飲んでた(笑))。飲みながら、「現実的にはこのままでは厳しい」「同じ過ちは繰り返してはいけない」と反省会になってしまったが、それでもその日だけはJ2を戦い抜いてJ1復帰を決めた余韻に浸り、夜の浦和ですれ違う同志たちと握手し抱き合い、喜びを分かち合った。

翌年からレッズは再びJ1の厳しい風に晒されては、幾度か勝てない時期も続くのであるが、それはまた後のお話。

**********
2000年11月19日/駒場スタジアム
J2リーグ最終第44節 浦和2-1鳥栖
得点/45分・アジエル(浦)、52分・ルシアノ(鳥)、
延長95分・土橋(浦)
観衆:20,207人

悪夢のJ2降格劇から4ケ月、いよいよ初体験となる未知なる2部リーグ~J2が始まった。
今回は開幕戦となった駒場での水戸ホーリーホックとの試合のお話。

**********

池田伸康など数名の戦力外選手と、完全移籍要請を断って去って行ったミニラこと中村忠を除けば、福田やペトロ、更に伸二など前年までの主力が全員残留し、レンタルから完全移籍という形で路木と、そしてウルグアイ代表ピクンも残った。
鹿島からは浦和出身の室井市衛と阿部敏行の獲得に成功。とりわけ鹿島でレギュラーを張っておりA代表候補にまで選ばれた阿部の獲得は衝撃的だった。
新監督である斉藤和夫氏には若干の不安を感じたものの、このままJ1に臨んでも上位を狙えるであろう、J2に全く相応しくない贅沢過ぎる選手層の陣容。マスコミ記事も楽に1年でJ1復帰を果たせるであろう楽観的な論評が大半を占めていた。
俺も、長丁場だからある程度は疲れて苦戦する時期もあるだろうが、最終的に秋が終わる頃には、優勝という形でJ1復帰を果たせるものと信じていた。

開幕戦の対戦相手が発表された。

はい?
みと?
ほーりー…何?

前にどっかで聞いたような…

水戸ホーリーホック。
JFLから昇格したばかりの、プロ1年生クラブだった。
それを知った途端、見えない穴ぼこに落ちそうになった。
去年までは、鹿島とか、磐田とか、ヴェルディとか…それが、今年は水戸ですか?いや、水戸には失礼を承知で言うが、当時は「何で水戸なんかと…」というのが最初に感じた率直な感想だったのだ。
だいたい去年まで日本のトップリーグのピッチを駆け回っていた選手が、そして日本のトップリーグのスタジアムで威勢良く叫び飛び跳ね、”日本一”とまで称されていたサポーターが、今年はJFLから上がったばかりのクラブと戦う姿なんて、想像出来なかった。
そう、ここに来て、いよいよJ2の悲惨な現実を断片だが痛感し始めていた。

それでもやるしかないと割り切って、今年も駒場のゲートをくぐった。

!?

目を疑った。愕然とした。
看板が少ない!去年まであった数のスポンサー看板が極端に少ない!!
レッズは自身のスポンサーは前年並みに確保していたが、Jリーグ自体の公式スポンサーは、J2では広告効果が期待出来ないという理由で設置されていなかったのだった。
当時の福田が「看板で距離感を掴むので違和感があった」と話しているように、この変わりようにはサポーターもショックを受けた人が少なくないはず。

…なんだか随分と殺風景なスタジアムになってしまったな。
そんな気持ちを象徴させるように、空はどんよりと曇っている。
と、対戦相手の選手を見れば、レッズでは全く使いものにならず去っていたGK本間が、いつの間にか水戸のゴールを守っていた。
昔、聞いたことあるが何処に行ってしまったのか矢野マイケルが、ピッチを走り回っていた。
もはやこのリーグに三浦カズは居ない。井原正巳もゴン中山も居ない。去年まの有力ライバル選手は何処にも存在しない。居るのは、前にどこかで聞いた選手か、聞いたこともない選手ばかり。寂しい…


試合は正直5点は確実に取って楽勝だと思っていた。ところが、レッズはどうも動きが重く、スムーズな攻撃が出来ない。勝って当然という雰囲気が影響してか、逆に緊張してボールが足に付かない様子で凡ミスを連発していた。
やっと阿部の先制点が決まる。喜ぶ。が、直後に「でも相手は水戸だし…」という変な引け目が脳裏を過ぎった。
ピクンの追加点、喜ぶ。が、また脳裏に…
逆に水戸は失うものは無いと言わんばかりの態勢。
田北が至近距離からのシュートを指一本でセーブする。「見たか!」と得意気に叫ぶ自分、が、直後にやはりハッと我に返れば「JFL上がりのチームに何でピンチをを作られているんだ…」と情けない感覚に陥る。

やっと2-0で勝ったものの、歓喜ではなく完全に安堵の勝利だった。
完全に相手を舐めていた。2部リーグを甘く見ていた。
駒場を出た直後、つい大声で「水戸相手にこれじゃ先が思いやられる」と言ってしまったが、周りを見れば同じような言葉を発しているサポーターばかりだった。みんなそれが率直な感想だったのだろうか。
この時点で早くも前途多難を予感させていた。

勝てば「格下に勝って当たり前」
負ければ「格下相手に情けない」
そんな煮え切らない、素直に勝利を喜べない、屈辱と苦悩のシーズンが始まった。

**********
2000年3月11日/駒場スタジアム 
J2リーグ第1節 浦和2-0水戸
得点/30分・阿部(浦)、68分・ピクン(浦)
観衆:18,422人

何を血迷ったのか、突如思いつきのように始める新カテゴリー記事。
生き物であれば、人間老若男女関係なく、年月が経つとだんだん昔の記憶が薄れて行くもので、それでも簡単には忘れない、忘れてはいけない出来事がある。
今回は、そんな俺が過去のレッズを思い返して、節目節目の試合を記憶が薄れる前に、改めて日記に留めておこうという完全自己満企画。
MDPの上野晃氏のコラムを真似して、題して「俺のあの日、あの時」。
ただし果てもなく昔の試合を改めて記事にしろと言っても、これは曖昧な記憶が邪魔していて訳がわからなくなる危険があるので、区切りとして、99年11月27日、そう、レッズのJ2降格が決まったあの日から始めたいと思う。
ちなみにこの企画の試合は順番ではなくて、ある程度は前後するかもしれないので、あしからず。
(尚、記事にする試合は、俺が逆襲日報inブログでレッズ関連記事を書き始めた05年4月3日以前の試合が対象)

**********

あの日、駒場西ゴール裏の端の方にいた俺は、刻一刻と迫る終了の笛の恐怖に怯えながら、それでも必死になって広島守備網をこじ開けようと奮闘しているレッズに対して、こっちも死に物狂いで声を張り上げていた。
福田が投入された。福田をこんな大切な試合にベンチスタートに追い遣ったア・デモスへの怒りと疑問は、この時点ではどこかに消えていた。だって、もう誰がゴールしたってかまわないから、どんな形でも良いから、とにかく1点を入れなければいけない状況に追い込まれていたのだから。
盛田がペナルティエリア内でフリーでボールを受けた。過大評価されもがき苦しんでいた大物ルーキーが、いよいよここで大仕事を果たすのか。と、それをトラップミスしてチャンスをフイにする。頭を抱えた。

後半終了を告げる笛が鳴った。一瞬、シンッと静まりかえった。浦和0-0広島。

この時、俺の周りでは奇妙で不思議な出来事が起きていた。
当時は携帯電話が一般的に普及し始めた時期だったが、まだ携帯によるインターネットは一般的ではなく、携帯によるJリーグ経過・速報を発信していた黎明期のJsゴールも、当然通話音声だった。
あの時のレッズサポだったら、いくら目の前の試合に集中しろと言っても、いくらゴール裏住人と言っても、当然ライバル市原の状況は気になる。そんな中でもこっそり携帯でそれを確かめていたサポがけっこう居たのだろう。
周りで誰かが言った。
「なんかあっちで言ってる!」
「市原が終了間際に同点に追い付かれたらしいよ!!」
「え!?」
「本当!?」
「本当ですか!?」
周辺は一旦沸き立つが・・・しかし、何かおかしい。だって、それならばレッズのJ1残留が確定するのだから、スタジアム内でもっと歓声が上がっても良いし、そもそも場内アナウンスがすぐにそれを伝えるはずである。
もちろん誰かが言ったその言葉に周り同様俺も期待したが・・・相変わらず静まりかえったままでアナウンスもウンともスンとも言わないし、だいたいレッズの選手も誰一人として喜ぶような仕草もしていない。
デマだった。いや単に言葉の伝達が錯綜していただけなのかもしれないが・・・

991127.jpg当時、平塚降格決定後の残りの残留争いはレッズ、市原、福岡に絞られ、試合前の勝点はそれぞれ27、25、28。そして市原はガンバと、福岡は横浜と試合中だった。市原はガンバに勝ち、福岡は横浜に敗れた。レッズは延長勝ちで勝点が市原と福岡に並ぶが、得失点差で僅かに1点、得点で2点、福岡に及ばなかった。

延長戦、精神がどこかに飛んでいた。もちろん応援はしていたが、とにかく勝って終わってくれという一心だけで、それ以外の自分がどこかに飛んでいた。声を張り上げて身体を動かしている自分を、斜め後ろからもう一人の自分が見ているような、そんな妙な感覚に陥っていた。
降格が決まっていながら、直後に延長戦を戦わなければいけない状況ほど、サッカーにおいて悲惨で残酷な時間帯は無い。それは選手も、サポーターも。

でも福田の”世界で最も悲しいVゴール”が決まった瞬間、何故か池田ロボ張りに飛ぶような気持ちで喜んでしまった。
降格が決まっているのに、このゴールが残留には無意味なゴールだとわかっていたのに、それでも何故か喜んでしまった。もしかしたら、サッカーの神様が、一瞬だけ俺に悲惨な状況を忘れさせて最後のゴールだけは喜ばしてくれたのかもしれないが、・・・またもシンッと静まりかえった状況に、一瞬で現実に引き戻された。いや、引きずり降ろされた。時に神様は粋で残酷な仕打ちをするものだ。

涙は出なかった。
耐えたわけではなくて、不思議とスッキリした気持ちになった。
ここ数週間、降格の恐怖に耐え続けていた緊張感から、解き放たれた一瞬だったのかもしれない。もちろん悪い意味で。例えは悪いが、逃亡者が逃げに逃げまくりながらも最後は警察に捕まってしまった時に良く「ホッとした」と述べるような、そんな感覚に似ていたのかもしれない。
この試合で引退が決まっていたかつてのバルセロナの英雄、チキの姿を見て、現役最後がこんな形で終わるなんて・・・それを思う余裕は微かに残されていた。
降格については、瞬時に割り切っていたのかもしれない。ただし変にいきなり来季に向けて割り切っていたのではなく、ただただ降格してしまったことについてのみの漠然とした割り切りだった。

帰りの武蔵野線では仲間と「来年2部かよ」「J2かよ」そんなため息混じりの言葉だけを繰り返していた記憶がある。
そしてJ2に落ちたという現実感の無い現実を受け入れようと必死になりながら、今の主力選手が降格によってレッズを出て行ってしまうのではないか?俺達の福田が、岡野が、永井が、ペトロが、そして伸二が・・・レッズは一体どうなってしまうのだろうか、その躁鬱感に怯えていた記憶がある。

帰宅して酒を飲む気力もなく、一瞬でふて寝した。
それからどれくらい時間が経っただろう、騒音で起こされた。
家の中がやけにうるさい。眠気眼で一階に下りると、
居間で親父とお袋が、壮絶な夫婦喧嘩を繰り広げていた・・・

***********
1999年11月27日/駒場スタジアム
J1リーグ2ndステージ最終第15節  浦和1-0広島 
得点/延長106分・福田(浦)
観衆:20,042人

ようこそ!!
試合終了/J1リーグ第9節 浦和0-1ガ大阪 得点/78分・坂本(ガ大) ・・・次の試合/YBCルヴァンカップ2回戦 鳥取-浦和(Axisバードスタジアム=4月24日19:30キックオフ)


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埼玉県富士見市在住

レッズと酒に生きる。
スタジアムではゴール裏住人であります。
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